Milton Friedman

久しぶりに、土曜日、日曜日と晴天が続いたのではないでしょうか?気温は上がりませんでしたが、風もほとんど無かったので、おだやかな二日間のイメージです。昨晩というか、未明には、月食を見るために2度程、外に出ましたが、着込んでおけば、大丈夫な程度の寒さで、落ち着いた気分でお月様を見ることができました。そうこうしながら、年の瀬が近づきつつあります。年賀状を探し始めました。
さて、今日、ミルトン・フリードマン新自由主義の旗頭、理論体系構築者という話を聞きながら、ふと思いついたのが、やっぱり、市場は弱いものいじめをしているに違いない、ということ。市場では、金融機関や投資機関同士が、事業で戦い、成長を競い合っているが、それが、相互に、ではなく、同じ市場に居る一般投資家や最近なら公的機関を標的にすることの競争になっている、との理解ができるように思います。
野原に居るライオンたちが、いかに上手に獲物を捉まえるかのの競争をしている場合、ライオン間で、上手下手はあるでしょうが、それでもほとんどのライオンが肥えていくでしょう。これが、野原にライオンしか居なければ、ライオン相互の戦いになり、勝つライオンも居れば、負けるライオンも居る。ある時負けていたライオンも、違う時には勝つ。この状況で、ライオンの間で力の差が極端でなければ、お互いに痛い目にあうのを減らす節度の様なものが出てくるのではないでしょうか?もちろん、それを考えれば、野原にいる獲物を全部捉まえてしまうのも、その後が困る頭の悪い話なので、避けようとしても良さそうなものですが、でも他のライオンが遠慮すれば、自分はもう少し捕っても大丈夫、という状態だと、結局誰も止められないことでしょう。
市場で、巨額の資金が起こして回っていることも、結局、これに似たことなのではないかと考えることができそうです。金融機関、投資機関はIT化でグローバル化や瞬時性・流動性が増し、レバレッジ等の技術も進み、しかもリスクが取れるので、いろいろな仕掛けができます。ところが、債権を買う人の多くは、安定な利回りの期待等、いわゆる古典的な視点で、長期保有を前提にしている投資家だとすると、この二種類の市場参加者は、目的も競争視点も異なってきます。で、結局、その技術力の差から、ライオンの例でいえば、ライオンと獲物の関係になってしまうのです。さらに、そこに、集めたお金の種類と大きさによっては、金融機関・投資機関は、何かに失敗しても、大きすぎて潰せない、公的資金を注入してでも支えなければならない、という場合が出てきます。すると、リスクを取っているようで、それがリスクになっていないかもしれないわけです。
この様な中途半端な状況は、フリードマン的な説明ならば、自由主義を徹底していないから、そこの矛盾が突かれる、あるいは、切磋琢磨の状況が産まれていない、ということになるのでしょうか?でも、さらに自由競争を徹底すると、本当に節度ある規律が産まれるのか、というと、実は活動の結果としての規律の発生・浸透は、自由主義や自由競争の度合というよりも、金融業・投資業のビジネスとしての魅力を減らして良いか、という議論かもしれないと思います。