Silent majority

ふたたび、時間は限られているのです。でも、あちこち読み歩き、あれこれ思い、急な買い物で外の空気を吸って、さらに思い巡らし、またまた少し書いておきたくなりました。

まずは「サイレントな読者を信頼する」という姿勢で、このことは氏が繰り返し書かれていることである。そしてその論点の意味が、このエントリーではより詳しく語られていて貴重だと思った。

 大抵の場合、大衆の健全な常識はこうした場合に無言なものだ。が、その無言がかつては、ある実際的な社会連帯の実感を伴っていた。現代ではそれがない。現代では、実体的な社会でのそういうコミュニケーションはないし、復権もできない。

 そうしたとき、ブログなりは、ある種、フツーなふーん、という常識的な連帯の水準を形成しえるように思う。

Blog論2005年バージョン(5)

最初は素直に頷いて読んだのですが、「サイレントな読者を信頼する」ことを色々考えるうちに、実は無言同士が持っていた常識とかそれに基づく連帯は、今も昔も実は虚構だったのかな?と、思い始めました。ですから、信頼できるかどうかも結果をみないと分からないかもしれません。ちょうど、http://www.impala.jp/ikoku/archives/000188.htmlを読んで間もなくだったせいで、こんな風に考えるのかも知れませんが、やはり声を出してみないと、自分にも相手にもそれがどれ位常識なのか分からないのではないでしょうか? それが思った程多数派でないことが分かった時に恥ずかしいと思う気質が強いから、日本人のSilentは、よりSilentなのかも知れません。
もちろん、ブログのコメントから全体の調子を推し量るし、新聞の世論調査も読みます。でも、やっぱり長い列の後ろに並びたいものではないでしょうか。それが悪いとは思いません。見事なバランス感覚で、見習って欲しい時もあります。ただ、そういうことの前に、"大衆の健全な常識"って、量子雲みたいに確定/固定させるまで、実はなんだか分からないものかもしれないな、そして欧米の人々は、だからこそ声を出して訴える/確かめる必要があることを知っているのかな、という考えに一旦たどり着いた、ということだけです。もちろん、損得の問題もあるでしょう。日本は世界には珍しく、政治に注文をつけなくても安全に幸せに暮らせる国の様ですから、こと政治に関して声を上げる必要が少なかった*1ことも、無言派の腰を重くしているでしょう。
あと"多数のブログ読者"と、"世の中の大衆"のスケール比も少し気になっていますが、傾向については同感です。

だからスーツを想定読者とする「日経ビジネス」や「フォーサイト」で連載をしている限り、ギークは何も言ってこない。たとえ読んでいて何か言いたいことがあっても、絶対に何も言ってこない。関係ないからである。でもネットでは違った。ということは、そこに「対話」や「理解」が生まれる可能性があるではないか、と思ったわけである。
Blog論2005年バージョン(7・これで完結) - My Life Between Silicon Valley and Japan

ギークに対して、スーツとは知りませんでした。読んだ後から、ITProの石黒さんのコラムいつまでもエンジニア――Geeksは眠れないを思いだしました。このコラムからはギークを外から暖かい目で見ている感じがするのですが、そういった感じ/立ち位置が、逆に対話を阻害するのかも知れません。また、ネットは元々ギークの遊び場だった(現在形で構わないのですが)わけですから、そこで話をすれば反応が多いのは分かる気がします。ただ、特に日本的な考えをすると、いくらネットで会話を試みてもそんなに盛んにはならないのではないでしょうか。だんだん、みんな引きこもっていく様な気がします。憎み合う必要は無いと思いますが、ビジネスゲーム選手と技術開発ゲーム選手では、過程でも結果でも、相容れない部分はあるでしょう。それを承知の上で、でもお互い自分のゲームを進めていく上で、もう一方のゲーム参加者も必要な訳ですから、会話した方が得ですし、そういう場を増やそうと努めていらっしゃるのは、すばらしいです。
そんな、感想文でした。

*1:現在形でも良いでしょうか?