Qualia

関東地方は、台風一過の秋晴れです。朝夕は冷え込む様になり、あの暑かった夏の日々が思い出せなくなりつつあります。
今月も、ぼんやりとはしながらもいろいろなことを、考えたり、感じたりして過ごしてきたのですが、何も書き留めることもなく、宙に消えていってしまいました。確か、竹内均さんだと思いますが、一日5枚(原稿用紙)を書くことを課していらっしゃるという話を読んだことがあります。時々、思い出して、真似してみようと思いますが、結構大変です。書き始めると、そのぐらいの量になることは、しばしばありますが、そういう時は、時間も経ってしまいます。
意識とはなにか (ちくま新書)
有名な茂木健一郎さんの本です。最新刊でも、導入本でも無いと思うのですが、全貌が描かれていたと思います。奥付けを見ると、今年になっても増刷されていますから、人気がある本に違いありません。最初は、大統一理論の話と脳科学の話が同じように語られていたので、驚きましたが、読みながら、あれこれ考えるうちに、そうかも知れないと思うようになりました。脳内で、神経細胞間のシナプスが結合したり、結合が外れたりする物理的な現象と、意識のような掴みどころの無いものが、一つの説明で片付くと信じてしまうと、かえって考える手がかりが出てくる気がします。同様な流れで、きっと脳(的な組織)を持っている全ての動物で同じ様なことが起こっているに違いないと、考えるのも、実はかなり自然なことに違いないと思うようになりました。多分、反射のような無意識なものと、意識的なものの間の境も実はうまく説明できるに違いありません。
実は、最近、脳と意識は分離できるのではないのか?と、あれこれ考えていたのですが、この本を読んで、それは無理かなと考えを改めました。どうも、脳あっての私らしい。もちろん、脳と同じ機能をするものを作れば、そこに意識を生成することはできるかも知れないけれども、それはきっと私ではないのです。遺伝子をコピーしたクローンはつくれても、私の意識はコピーできない。現在の脳に関する研究状況からは、その様に考えるべきかなと思いました。何を言っているかというと、私の究極の寿命は、脳の寿命(脳の再生能力持続期間?)に支配されるということです。もちろん、現実には、それ以前に、体のどこかが寿命を迎えて、脳の生命維持ができなくなるでしょう。というか、体の器官をこうやって部分部分に分けて論じること自体がナンセンスなのでしょう。
本書を読んだ印象として、第6章ぐらいまでは、素直にスーッと読めたのですが、第7章辺りからは、読みづらくなりました。筆者自身もまだ考えがまとまっていない、あるいは、納得しきれていない、考えながら、書いている状況かなと感じました。説明や挙げられている例が、どんどん抽象的になっていった感じがします。この辺りが、最近の御本ではどのようにまとまっているのか、興味を覚えますので、他の本も読んでみたいと思います。
余談になりますが、qualiaは、qualeの複数形の様です。そもそも、qualeも分からないのですが、dataの例を思い出しました。
これで、原稿用紙2枚半〜3枚ぐらいでしょうか。5枚は遠い。