My Computer

山田祥平のRe:config.sysが面白い。今回のコラム「そのデータ、捨ててください」は、他に比べると私にとっての面白度は少し低いのですが、それでも十分興味をひきます。

デスクトップの散らかり具合や色合いを含め、自分色に染まってしまう。それだけ自分が染みこんだパソコンでも、不思議と愛着がわくという実感を抱くことはない。使い続けているときには、手放せない愛機ではあっても、新しいマシンを手に入れると、気持ちはそちらに移ってしまう。この淡泊で薄情な感情は、紙の手帳や愛用の筆記用具などを使っていたころではありえなかったと思う。

 これは、相手が機械であることと、作り上げて自分色に染めきった環境は、その気になれば、ほぼ同等のものとして再現できる保証があるからだ。

環境が再現できる保証は、あまり関係なく、私の場合、単純で、自分でお金を出したかどうかが、これを決めています。
会社で使うパソコンは、家で使うパソコンに比べてはるかに素早く気持ちが切り替わります。デジタル的に、あるいは、デスクトップ的に、同じものが出来上がれば、良いという感覚ではありません。やっぱり、箱自身に愛着が出ています。ただ、特に仕事から見た場合、あるいは、インタラクティブに使うことを考えた場合、高機能な最新PCを一度使い始めると、旧機種での作業は苦痛になるので、ドライに切り替えざるをえないのも確かです。でも、やはりそこには箱に対する愛着はあるので、さて、次はどうやって使おうか? と、真剣に悩んであげることになります。

 HDD上のデータの完全な抹消という条件さえ満たしていれば、使い古したパソコンの売却や譲渡にはまったく抵抗がない。同じ機械であっても、なぜか、カメラなどではそういう気になれない。使わなくなったカメラでも、愛着は抱き続けるし、また使うかもしれないと、棚の奥にしまい込んでしまう。

 かくして、何台ものカメラを所持することになるのだが、パソコンで、そういうことはありえない。これはカメラへの愛着の主体が手になじむとか物理的なスリ傷、手あかといったアナログ的な部分ばかりだからなのかもしれない。

 でも、これは、ぼく自身だけの特別な感情かもしれない。かつての愛機をずっと保存しているユーザーは少なくないし、コレクションとして、クラッシックなパソコンを収集しているユーザーもいる。それでも、現在進行形で使い続けている愛機よりも、愛着のある古いパソコンというのはありえないのではないか。どんなに手になじんだパソコンでも、そのことが、デジタル的な部分への愛着に勝ることはない。

箱への愛着と、デジタル的な部分への愛着のどちらが勝っているでしょうか。私の中では、もっと複雑です。

それよりも気にしなければならないのは、個人情報の漏洩だろう。クラッシュではなく、パソコンが盗難に遭ったり、どこかに置き忘れたような場合の配慮も必要だ。以前も、少しふれたが、OSはパスワード保護されているので、メールなどが漏れる心配はないが、素の状態でHDDに保存されたデータは、HDDを取り外されて別のパソコンに装着されたらおしまいだ。今後は、TPMなどを使った暗号化のシステムなどが、ますます重要になっていくだろう。

最近は多くのHDDに、HDDパスワードがあります。ちょっと、Googleを引いてみただけでは、トラブルはあっても、解法は少ないです。(例えば、Password Cracker POD) 所詮パスワードなので、その選び方が鍵になってしまいますが。